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Learning:学ぶ 山田耕筰シリーズ1回目
「北原白秋と山田耕筰が意気投合した日
詩人で童謡作家の北原白秋と作曲家山田耕筰は数多く童謡の名作を残しています。二人が意気投合した日はいつなんでしょうか?
山田耕筰家継承者で、北原白秋研究家の竹村忠孝氏に聞きました。
箱根「文芸の森」にて
山田耕筰家が、茅ケ崎に在住時に使用していたピアノです。
山田耕筰と妻の菊尾さんのツーショットの写真。
そして、昭和6年ごろですけど、山田耕筰と妻の菊尾さん、そして、実の子供が3名おります。長女の美沙さん、長男の耕一さん、次女の日沙さん、家族5人で写っている写真が向って右の写真です。
茅ケ崎で使っていたそのままを、今は、箱根登山線の彫刻の駅の箱根「文芸の森」の山田耕筰文庫のオフィス。小さいオフィスに置いてあります。
箱根『文芸の森』はこちらへ。
北原白秋と山田耕筰の出逢い
北原白秋と山田耕筰の出逢いは、 明治41年か42年ごろだと思います。
大正に入って山田耕筰は、北原白秋の「彼岸花」という詩に目を通します。
「ごんしゃん ごんしゃん 何処へゆく 赤い御墓の 曼珠沙華(ひがんばな)」この日本の詩にリズムがあると感じています。
童謡という言葉が生まれる前の事です。
山田耕筰はドイツ、ロシア、アメリカに行っています。大正7年にアメリカのカーネギーホールで東洋人初の演奏会を大成功させて、大正8年に戻っています。
帰国してすぐに、「築地精養軒」で、三木露風・北原白秋・深尾須磨子、萩野綾子の帰朝歓迎会を受けます。
白秋は日本の音楽について、「音楽評論家たちは、原詩、日本語の詩の持つ言葉のリズムに対してあまりにも無関心である。日本語にはそのものにリズムがあるんだ。」という事を白秋は山田耕筰に話します。
山田耕筰は今までの外国の経験、そのようなものから、「日本語の語感を大切にした曲がないということから、そして、日本語のアクセントを大切にした曲を作りたいんだ。実はそういう想いがたくさんあるんだ」という想いを白秋にしています。
そこで、日本語を大事にしたい白秋と、日本語のアクセントを大事にしたい、、そういうもので作曲をしたいと思っていた山田耕筰は意気投合して、童謡をとおして、日本人としての音楽を作っていこうと思いました。
それが、この大正8年に山田耕筰がカーネギーホールを大成功して戻ってきた、築地精養軒です。
そして、6月22日ですね。
築地精養軒から一ヵ月くらいたった、6月22日、雑誌「赤い鳥」の帰朝歓迎音楽会が、帝劇で開催される訳です。白秋は、「赤い鳥」設立の手伝いをしていて、6月に7月1日号が創刊されるのですが、童謡欄を担当しています。
その日本で最初で生まれた童謡は「栗鼠栗鼠小栗鼠(りすりすこりす)」ですけど、日本語にリズムがあるということで、曲は考えていませんでした。
曲を作ると楽譜。楽譜というとになれば、広がるという形で、カナリアが最初に曲がついて歌われます。
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竹村忠孝氏
北原白秋研究家、山田耕筰家継承者、
法政大学大学院「国際日本学インスティテュート」政治学専攻修了学術修士
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